治療家は、治してはいけない ― 治療という仕事の“本当の役割”とは?

治療家は、治してはいけない
この言葉を聞いて、違和感を覚えた方も多いかもしれません。治療家とは、治す人ではないのか。
症状を改善することが仕事ではないのか。そう思うのは、ごく自然なことです。
むしろ、その疑問を持てること自体が、治療家として健全だと言えるでしょう。
しかし、私たちはあえてこの言葉を掲げています。それは挑発でも、逆張りでもありません。
治療家という仕事の本質を、もう一段深く見つめた先にある結論です。

「治す」という言葉が生む、見えないズレ
「私が治しました」
「この技術で治します」
「治せる治療家になりたい」
治療業界では、当たり前のように使われている言葉です。ですが、この言葉の裏側に、ある見えないズレが生まれていることに、私たちは気づく必要があります。
それは、“治す主体”が誰なのかという問いです。治療家が「治す側」に立った瞬間、患者様は無意識のうちに「治してもらう側」になります。
この関係性は、一見すると問題がないように見えます。しかし、長い時間軸で見たとき、この構造は患者様から最も大切なものを奪ってしまう可能性があります。
それは、「自分の体は、自分で回復する力を持っている」という感覚です。
人の体は、もともと治ろうとしている
少し立ち止まって考えてみてください。
傷ができれば、かさぶたができる。熱が出れば、体はウイルスと闘う。骨折しても、時間とともに骨はつながっていく。
これらは、誰かが“治している”わけではありません。体そのものが、常に回復へ向かおうとしているのです。
私たち治療家がしていることは何でしょうか。
本来は、
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回復を邪魔している要因を取り除く
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体が正しく働ける環境を整える
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本来の秩序に戻るきっかけを与える
そのサポートに過ぎません。
それにもかかわらず、「治した」という言葉を使った瞬間、あたかも治療家が主役であるかのような物語が始まってしまいます。

治療家が前に出るほど、患者様は弱くなる
これは厳しい表現かもしれません。しかし、あえて伝えたいことがあります。
治療家が前に出れば出るほど、患者様は自分の体を信じなくなっていきます。
「この先生がいないと不安」
「ここに来ないと治らない」
「自分では何もできない」
この状態は、果たして“健康”でしょうか。
一時的に症状が改善していたとしても、患者様が自分の体を理解し、信頼し、人生を主体的に生きていないのであれば、それは本当の意味での回復とは言えません。
治療家の役割は、患者様を依存させることではなく、自分の人生の舵を、再び患者様自身に返すことです。
「治してはいけない」という言葉の本質
では、「治療家は、治してはいけない」とはどういう意味なのでしょうか。
それは、治療家が主役になってはいけないという意味です。
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治す人にならない
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支配する人にならない
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正解を与える人にならない
代わりに、
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体の声を一緒に聴く人になる
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回復の邪魔を見つける人になる
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患者様の可能性を信じ切る人になる
この立ち位置に立ったとき、治療家の仕事は単なる「症状改善」から、人生に寄り添う仕事へと変わっていきます。

治療家という仕事の、もう一段深い世界へ
ここまで読んで、「自分は、これまで何を目指してきたのだろう」そう感じた方もいるかもしれません。
違和感や問いが生まれた瞬間こそが、治療家として次のステージに進む入り口です。なぜ治療家は「治してはいけない」のか。では、何をすべき存在なのか。
その答えを、哲学・科学・実践の視点から、少しずつ紐解いていきます。治療家の仕事は、人を変えることではない。人が本来の力を思い出す“場”をつくることです。
治療家としての「本質」を、どこで学ぶのか
治療家として経験を重ねるほど、技術だけでは届かない領域があることに気づき始めます。
なぜ同じ技術でも、結果が変わるのか。なぜ患者様との関係性で、回復のスピードが変わるのか。なぜ「うまくいっているはずなのに、どこか違和感が残る」のか。
その答えは、技術の外側ではなく、治療家自身の在り方にあります。
シオカワスクールでは、「どう治すか」を学ぶ前に、「治療家として、どこに立つのか」を徹底的に問い続けます。
・なぜ治療家は主役になってはいけないのか
・体が本来持つ力と、どう向き合うのか
・患者様の人生に、どのように関わる存在であるべきなのか
それらを、哲学・科学・臨床の三位一体で学ぶ環境があります。
もしあなたが、
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技術の先にある“本質”を学びたい
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治せる治療家ではなく、信頼され続ける治療家でありたい
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患者様の人生に、誠実に向き合える存在になりたい
そう感じているなら、一度、シオカワスクールのセミナーを体験してみてください。
