トムソン・テクニック日本上陸|1973年、最初のセミナーで起きたこと

父が手紙を書いたら、2人の巨人が日本に来た 1973年、トムソン・テクニック初来日の記録

父・塩川満章D.C.がベネズエラからの帰路、パーマー大学でDr.クレイ・トムソンのセミナーに偶然出会い、その場でセミナーの日本招致を直談判したところまでお伝えしました。

今回は、その交渉が実を結び、トムソン・テクニックが初めて日本に届いた日の話です。

半信半疑だった父が、手紙を書いた

セミナーその場での直談判で、Dr.トムソンは快く承諾してくれました。しかし父は、帰国してからも少し半信半疑だったそうです。

「本当に来てくれるのだろうか」

そこで父はDr.トムソンに手紙を送りました。セミナーの感動が冷めないうちに、日本でのセミナー開催について正式に打診する手紙です。

するとDr.トムソンから返事が届きました。そこには、こう書いてあったそうです。

「ガンステッド・テクニックの創始者であるDr.クリアランス・ガンステッドの弟、Dr.マートン・ガンステッドも一緒に連れていきたい」

これは予想外の申し出でした。父はこの言葉を読んで、Dr.トムソンという人物のスケールを改めて感じたと言っています。世界最大のカイロプラクティッククリニックを作った男の弟を、自ら連れてきてくれるというのです。

Dr.マートン・ガンステッドが同行してくれた理由

Dr.マートン・ガンステッドは、ガンステッド・テクニックの創始者・Dr.クリアランス・ガンステッドの実の弟です。

2人はともにリウマチ性関節炎を患い、カイロプラクティックに救われたことがきっかけでパーマー大学に入学した兄弟でした。

兄のDr.クリアランスは独自のガンステッド・テクニックを開発し、アメリカ中西部の人口3000人の町に世界最大のクリニックを作りました。

弟のDr.マートンは兄と5年間ともに開業した後、Dr.クレイ・トムソンに出会い、トムソンテーブルを使った独自のテクニックを編み出していきました。

つまり、Dr.トムソンとDr.マートン・ガンステッドは、ともにカイロプラクティックの巨人であり、深い親交を持つ人物同士だったのです。

その2人が、1973年に日本に来てくれた。

瞬く間に、日本中のカイロプラクターの心を捉えた

1973年、日本で初めてのトムソン・テクニックセミナーが実現しました。

父は後にこう語っています。

「トムソン・テクニックは、瞬く間に日本中のカイロプラクターの心を捉えました」

なぜ、それほど早く広まったのか。

理由は明確です。トムソン・テクニックは、誰でも習得しやすいテクニックだったからです。ガンステッド・テクニックは精密で強力ですが、習熟に長い年月を要します。

一方、トムソン・テクニックはドロップメカニズムという物理的な仕組みを活用するため、術者の体力や経験の差に関係なく、最小限の力で安全にアジャストメントが行えます。

「不器用な人でも、年齢に関係なく、多くのカイロプラクターに好まれた」と父は語っています。

しかもそれは、サブラクセーションを正確にアジャストメントするというカイロプラクティックの本質的な目的と、完全に一致していました。技術の入りやすさと哲学的な深さが同居しているテクニック。それがトムソン・テクニックでした。

Dr.マートン・ガンステッドが日本に残したもの

このセミナーで父が印象的だったと語るのが、Dr.マートン・ガンステッドの存在感です。

高齢にもかかわらず日本に来てくれたDr.マートンは、日本をとても気に入ってくれました。

後に何度も来日し、ある時など日本にビザなしでやってきたことがあったそうです。入国管理でトラブルになりかけたところを、父が担当者に「私が保証します」と掛け合って、なんとか入国を実現させた。そんなエピソードも残っています。

「ミツ、ビールを飲もう」と言って銀座通りを散歩し、ライオンビルでビールをおいしそうに飲む。そんなDr.マートンの姿が父の記憶に残っているそうです。

アメリカではセミナーなどで一切教えなかった彼のテクニックを、日本でだけ講義してくれた。その事実一つとっても、Dr.マートンにとって日本がいかに特別な場所だったかが伝わります。

20数回の来日が始まった

1973年の第1回来日を皮切りに、Dr.クレイ・トムソンはその後20数回にわたって日本に来てくれました。

さらにDr.トムソンは来日のたびに、世界の著名なカイロプラクターを連れてきてくれました。SOTテクニックの創始者・Dr.ディジョネット、レントゲン学の権威・Dr.エアハート、磁気マニュアルテクニックのDr.ファイファー。

日本のカイロプラクティック界は、Dr.トムソンという一人の人物を通じて、世界最高水準の知識と技術に触れることができたのです。

父は後にこう語っています。

「Dr.クレイ・トムソンは、日本を第二の故郷と言ってくれました」

一人のカイロプラクターが、帰路の途中に立ち寄ったセミナーで感銘を受け、その場で直談判した。そこから始まった関係が、半世紀にわたって日本のカイロプラクティックを動かし続けることになりました。

このブログシリーズを通じて

このブログシリーズ「トムソン・テクニック」では、シリーズにわたってトムソン・テクニックの歴史・人物・技術概要・臨床の実際をお伝えしていきます。

次回はいよいよ、Dr.クレイ・トムソンという人物そのものを深く掘り下げます。カイロ界の重鎮として世界に知られるこの人物が、どんな生き方をし、どんな言葉を残し、どんな哲学を持っていたのか。塩川満章D.C.から直接聞いたエピソードをもとにお伝えします。

ぜひ次回も読んでください。

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塩川 雅士D.C.

執筆者塩川 雅士D.C.

1980年、東京都生まれ。17才で渡米後、2004年パーマーカイロプラクティック大学を優等で卒業。D.C.の称号取得。米国ナショナルボード合格。日本カイロプラクティックリサーチ協会(JCRA)役員。2005年からカイロプラクターを育成する学校の運営と講師に携わり、現在、年間約300時間の講義やセミナーなどの活動を全国で精力的に行っている。

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