【塩川雅士D.C.の生い立ち】なぜ私はカイロプラクターの道を選んだのか?

シオカワスクール代表の塩川雅士です。
これからカイロプラクティックを学ぼうとする皆さんに向けて、「なぜ私がカイロプラクターを志したのか?」
そのきっかけや背景をお話ししたいと思います。
カイロプラクティックを学ぶうえで、技術や知識と同じくらい大切なのは、「なぜ自分はこの道を選んだのか」という”想い”や”哲学”です。それがなければ、どんなに素晴らしい技術を学んでも、やがて壁にぶつかってしまうからです。
今回の記事では、私自身の話を通じて、皆さんが自分の「なぜ?」を見つめ直すきっかけになれば嬉しいです。
幼少期に知ることがなかった父の仕事
私の父・塩川満章は、日本にカイロプラクティックを広めた第一人者です。しかし、私は小さい頃、父がどんな仕事をしているのか知りませんでした。
父はとても忙しい人で、ほとんど家にいなかったからです。私が幼稚園や小学生の頃、父の顔を見た記憶はあまりありません。
週末にやっと一緒に過ごせるかと思えば、新宿の歌舞伎町で映画を見るくらい。そのくらい父とは距離がありました。
そのため、父の仕事がどんなものなのかも、まったく分かりませんでした。
「人の役に立つ仕事」が少しずつ形に
そんな中、中学時代にサッカー部の仲間がケガをしたとき、父が往診に来てくれたことがありました。その時に初めて、父が人を助ける仕事をしていると知ったのです。
「お前の父ちゃんすげえな」
「ありがとう、助かったよ!」
友達が喜んでくれる姿を見て、「人の役に立つ仕事っていいな」と、うっすら思い始めたのはこの頃でした。
高校生になり、進路に迷い始めた頃。将来どうしようかと悩みながら、父の治療院を見学することが増えました。
そこでは、松葉杖で歩けなかった人が笑顔で帰る姿や「先生、本当にありがとう」と泣いて帰る患者さんの光景を目の当たりにして、「ああ、この仕事ってすごい。人の人生を変える力があるんだな」と実感するようになりました。
それでも、まだ「自分がカイロプラクターになる」とは決めきれていなかったのが本音です。
渡米という父からの課題
そんなとき、たまたま双子の弟もカイロプラクティックに興味を持ち、父に相談したところ、「やるならアメリカに行ってこい。俺からは教えない」と。
父が卒業したアメリカのパーマーカイロプラクティック大学を勧められ、でもすぐには入れないからと、まず1年間だけ英語を学びに行くことになりました。
「やるかやらないかは自分次第だ。でも本気なら応援する」そう言われて、弟と一緒に渡米したのが、本格的なスタートでした。
英語も話せない…でも「必要とされる経験」
アメリカでは、当然ながら英語が話せず、毎日が必死でした。学校でもチームメイトとも話せず、孤独な日々。それでもなんとか自分を証明したくて、得意だった陸上を始めました。
そこで、走ることでしか表現できない自分を見てくれる人がいたんです。
「また一緒にやろう!」そう言ってくれる監督や仲間の存在に、「人から必要とされる嬉しさ」「誰かと一緒に何かを成し遂げる感動」を初めて味わいました。
そして、「いつか自分も誰かのために、必要とされる存在になりたい」そう強く思ったんです。
決定打となった”カイロプラクティック哲学”との出会い
実はここまでの人生、カイロプラクターになりたいと決めたわけではありませんでした。でも、アメリカのパーマー大学で初めて出会った「カイロプラクティック哲学」がすべてを変えました。
その中でも「ブルーブック」というカイロプラクティック哲学の本。それを1日で読み切ったとき、「これは一生をかけてでも伝えなければいけない」と衝撃を受けたんです。
「知らずに死んでいく人がいるなんて、絶対にいけない」「これを一人でも多くの人に伝えなきゃ」そう思ったとき、ようやく 「自分はカイロプラクターになる」 と心が決まりました。
〜あなたも「本気でやる」と決めた瞬間から〜
ここまでの私の話を聞いて、どう感じましたか?
私も最初からこの道に迷いなく進んだわけではありません。だけど、「人の役に立ちたい」「必要とされたい」 という思いから、カイロプラクティック哲学と出会い、本気になれたんです。
もしあなたが今、少しでも「人のために何かしたい」「本当に人の人生を変えられる仕事をしたい」と思うなら、カイロプラクティックはあなたにとって最高の道になるかもしれません。
そして その覚悟と信念を支えてくれるのが哲学 です。
これから一緒にシオカワスクールで学びながら、あなた自身の 「なぜこの道に進むのか」 を見つけていきましょう。
あなたのカイロプラクターとしての一歩を、心から応援しています。